れい@未熟なパパさん新聞

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ADHDの教員のいる学校。~自分の物差しで他人を測るな~

図表でわかる!】ADHD(注意欠如多動性障害)の特徴 | ADHDって何 ...

同じ職場にADHD注意欠陥多動性障害)の先生がいた。

 

その先生は自分がADHDだということは知らないが

 

その分野に知見のある有識者

 

「その先生はADHDの傾向がある。」ということを漏らした。

 

たしかにその先生は、

 

言われたことができない。

 

人から言われたことの本質や意図がよくわからない。

 

自分のクラスの生徒をまとめることができない。

 

してはいけないことの理由がわからない。

 

テストの答案をなくす。

 

注意されたことを忘れて、正すことができない。

 

こんな場面がよくある。

 

その人がやってみて失敗ばかりして、正すことができず、繰り返し繰り返し同じ失敗をするのを見て、

 

この先生はADHDだから、この先生ができる仕事を与えるべきだと思った。

 

その先生ではなくて、体制にエラーがあると思った。

 

誰しも向き不向きがある。

 

このADHDの先生は失敗ばかりするその仕事が向いてないだけ。

 

だから、ほかの仕事に回す必要がある。

 

なのに、本人は一生懸命にやっていても失敗をするその先生の背中を無理やり押して

 

不向きな仕事をさせているのが職場の現状だ。

 

その先生がADHDであるということを知っているほかの先生が

 

こんなことを言っていた。

 

「むかつく。ADHDだからといって、そのひとだけ大目に見るのは違うんじゃない?

みんなに迷惑かけて、仕事もミスばかりしてるのに、ADHDだからといって許されるわけじゃない。仕事をしている以上、みんなと同じだし、迷惑かけないように努力するべきだと」

 

僕はそれを聞いて、「残酷だな」と感じた。

 

その先生は手を抜いているわけじゃない。

 

ADHDに甘えているわけじゃない。

 

本人は自分がADHDであることを知らない。

 

なぜ残酷と思ったかというと

 

本人は一生懸命にしている。

 

だけどADHDであり、抱え込めるキャパシティが違うのだ。

 

だから、どう頑張っても、これ以上は無理なのだ。

 

それなのに、その人が人と同じようにできないことにいらだち、

 

怒りを向けるのは大人げない。

 

人それぞれ能力のキャパシティは違うし、向き不向きがある。

 

どう頑張っても、もがいても、時間をかけても、たどりつけない領域があり、限界がある。

 

そのADHDの先生はそこが限界なのだ。

 

だから僕らがすることは

 

その先生がほかの人と同じようにできるのを求めるのではなく、

 

その先生のキャパシティでできる仕事を与えるべきだと。

 

向いている仕事を与えていくほうがいいと思った。

 

たとえば、足の不自由な人に向かって

 

走れ!

 

なぜみんなと同じように走れない?

 

とは言わないだろう。

 

足の不自由な人は

 

自分のできる最大限のことをしている。

 

足の不自由な人のキャパシティを超えるような、限界を超えるような要求はしないだろう。

 

不自由ながらもできる仕事や場所を与えるだろう。

 

それと同じでADHDも同じである。

 

指示をしようが、注意をしようがその人の限界を超えているのだ。

 

キャパシティを超えているのだ。

 

だから、その人ができる環境や場所を与えなくてはいけない。

 

それができていない労働環境のシステムが悪い。

 

ADHDの先生が悪いわけではない。

 

僕はそう思う。

 

 

 

僕はADHDの先生にいらだちを感じた先生に言った。

 

「人によって限界は違うから、人がどうこう言うことではない。人の限界をまだやれるといって、甘えているといって、他人が決めることではない」

「多様性を持てていないよ」

 

と。

 

 

僕らの限界やキャパシティは自分にしかわからない。

 

他人から見たら甘えているように見えるかもしれない、

 

他の人よりできないから手を抜いているように見えるのかもしれない。

 

何回も言うが僕らには得意不得意がある。

 

だから、その限界やキャパシティは他人の僕らが決めることではない。

 

そして、自分の普通を押し付けてはならない。

 

自分にとって相手の努力は50%くらいに見えるかもしれない。

 

だけど、本人にとっては100%の努力かもしれない。

 

自分の物差しで他人をはかってはいけない。

 

本人は頑張っている。

 

みんな頑張ってる。

 

それをみんなで認め合える世界になればいいと思う。

 

優しい世界になればいいと思う。

 

けっして自分の物差しを出してはいけない。

 

ましてやそれで他人をはかってはいけない。

 

人それぞれ目盛りが違う物差しを持っているのだ。

 

その物差しの違いをしり、

 

多様性を受け入れくことが大切だろう。

 

人に対して、なんでできないの?とか、

 

いらだちを覚えるのは優しくない。

 

できない環境を与えられたという目線に立って

 

その苦しんでいる人に寄り添ってほしい。

 

僕は優しい世界で歩いていきたい。

 

自分の生徒に

 

自分のこどもに

 

そんな世界を歩ませたい。

 

人のちがいを受け入れる多様性のある人に。

 

そしてこの現代には多くの病名や障害名がある。

 

僕ら一人一人何かしらの障害を持っているだろう。

 

それなのに目立った障害が出た人だけをたたいていく。

 

自分も障害(人とは違うところ)があるとは知らずに。

 

その障害の一つ一つも個性だとして

 

受け入れていく世界が来ますように。

 

ただの、得意不得意で片づけれる世界が来ますように。