れい@未熟なパパさん新聞

父親になりました!家族に1番の幸せを感じてもらえるように日々努力していきます!その日常を投稿していきます。また、YouTubeもやってるので見てみてください!https://youtube.com/channel/UCEiX0KOUIvEHonIuaLYVkWw

MENU

顔面ニキビお化けだった僕がたどり着いた最短でニキビを治す方法

ニキビ|横浜市都筑区の美容皮膚科<センター北ヒロクリニック>

にきび。

 

こいつはめちゃくちゃしつこい。

 

学生のころからこいつに悩まされていた。

 

自分の顔は汚い部類だといつもいつも思っていた。

 

だから、だれだれの顔がきれいだとかいう周りの話の時には

 

びくびくしていた。

 

いつ「お前の肌きたね!」

 

と言われるか怖かったから。

 

そこで僕は皮膚科に通った。

 

テキトーな塗り薬と、錠剤を2種類もらった。

 

毎日欠かさず飲んでみたが

 

一向に良くなる気配はない。

 

塗り薬に関しては

 

ちょっと肌がひりひりして僕には合わなかったようだ。

 

むしろ悪化しているような気さえした。

 

そこで僕は化粧水や乳液について調べるようにした。

 

もちろんいままでも使っていたが

 

よく売れていたり、名前が有名なものを使っていた。

 

どれもたいした差はないだろうと思って

 

テキトーに選んでいた。

 

ただひとつだけこだわりがあり、

 

それは

 

「女性用の化粧水、乳液」を使うことだ。

 

つまりメンズ~

 

といった、いわゆる男性向けのものは使わなかった。

 

それはなぜかというと、

 

なんとなく女性もののほうがいい成分が入ってそう。

 

という感覚を持っていたからだ。

 

僕以外にも同じ感覚の持ち主はいるのではないだろうか。

 

しかし、だんせいとじょせいでは大きな違いもあるそうだ。

 

それは油分!だそうだ。

 

男性はこの油分が多いため、男性用の化粧水や乳液は油分を抑えているらしい。

 

そこで僕は

 

ユーチューブやインターネットを駆使して

 

最高の化粧水、乳液を探す旅に出た。

 

いろいろなものを実践してみた。

 

そこでたどり着いた、最強の組み合わせはこれだ。

 

まずは「ロゼット洗顔パスタ」だ。

こいつはなにより安い。そして泡がきめ細かく、いい感じだ。

 

 

 

 
 
その次に
 
「ビオレ おうちdeエステ」だ。
 
 

 

 
 
こいつも使えばわかる、めちゃくちゃいい。
 
 
そして
 
化粧水、乳液はこれだ。
「キュレル」
 
 

 

 

 

化粧水や乳液はこれしかない。

 

それくらいこいつはいい。

 

どの薬局やドラッグストアにも売っている。

 

今回紹介したものはどれも入手しやすいものだ。

 

ぼくはこれらを使って

 

凸凹ガタガタの顔から卒業することができた。

 

そして今回紹介したものは

 

美白効果があるのか、

 

肌が白くもなった。

 

ニキビの赤みがなくなって、そう見えるだけかもしれないが。

 

ぜひつかってみてくれ!

そのミスはあなたのせいじゃない。~ミスをすることを前提に設計しろ~

 

f:id:reilab:20211015102332p:plain

同調圧力ってどうなの?

 

 

 

「あいつはミスばっかりしてむかつく」

「いつも同じミスばかりして、何がしたいん?」

「この仕事向いてないやろ」

「あの人は仕事ができない」

 

こんな言葉を聞くことがある。

 

僕はみんなの心が狭いと思った。

 

なぜ人は他人も自分と同じようにできると

 

錯覚してしまうのだろうか。

 

前回の記事と似ているが

 

人には向き不向きがあれば、感覚や感じ方もそれぞれ違う。

 

それなのに、どうして自分と同じだと思ってしまうのだろうか。

 

どうして自分と同じようにできると思ってしまうのだろうか。

 

自分と同じようにできると思うから、

 

できない相手にイライラする。

 

それはあまりに自分中心すぎる。

 

勝手に相手に対する理想を求め、それができないと腹を立たせる。

 

何様のつもりだといいたくなる。

 

僕は人に干渉しないし、深く感情移入をしないように気をつけている。

 

それは感情移入をすることで感情論となり、その人が被害者であるという立場を自ずととってしまいがちだからだ。

 

相手に対して自分だったらこうできるのに

 

と思うことは過度に相手に期待しすぎているのと同義である。

 

そこで必要な考えは

 

「ミスをするということを前提に設計する」ということだ。

 

僕は何か相手にお願い事をするときも、こうしてくれたら嬉しいなと思うときも

 

ミスをすることを前提にお願いするし

 

思うようにならないことのほうが多いと思って考える。

 

すると、相手のミスや思い通りにいかなかったときに

 

「そんなこともあるよね」と割り切ることができ、

 

じゃあそうならないためにどうしたらいいかという議論に入ることができる。

 

もし、相手に対してイライラする気持ちが残れば、その議論は感情論になるだろう。

 

僕はあらゆることに「エラー」が生じるということを念頭に物事を設計する。

 

「人を信用していない」ということを言われることがあるが

 

決してそういうつもりはない。

 

信用はしているが、何事にもエラーはつきものということを知っているし、

 

思い通りにならないことを知っている。

 

そうでないと、思い通りにいかなかったときに怒りを覚えるだろう。

 

部下や職場仲間がミスをすることにいらだちを感じてはいけない。

 

それを任せた自分の責任だ。

 

ミスをすることがあるということを考えずに、その人に仕事を振った自分の責任なのだ。

 

ミスをした人に仕事を振ったのは自分。

 

だから自分の責任だ。

 

そして、僕はヒューマンエラーはないと思っている。

 

あるのはすべてシステムエラーだ。

 

誰かがミスをすると、その人が悪いと人は決めつける。

 

それはなぜか。

 

自分が責められないようにするためだ。

 

もしくは傍観者が一番安全だからだ。

 

そして、その人の悪口を陰で言ったりする。

 

攻撃されない安全な場所から、ミスした人に対して

 

石を投げつける。

 

そんなイメージだろうか。

 

人は人のミスが好きだ。

 

人はどうやら集団生活の中で生き抜くために

 

自分がその集団における価値を高いところに持っていきたいという欲があるのだろう。

 

だから引きずり下ろせる対象を見つけたら

 

みんなで一生懸命引きずり込もうとする。

 

人は人の不幸やミスをよだれをたらして

 

「今か今かと」

 

待っている。

 

だから、ミスした人に対して攻撃を開始する。

 

実にくだらない。

 

とても、動物的行為だと思う。

 

自分にはミスは微塵もないとしたいのだろう。

 

でも、少なからず周りにも責任はある。

 

仕事を振った人、教育係、教えてあげない同僚。

 

そんな人たちにも、少なからず責任がある。

 

だから僕はミスした人の責任だけではないと思う。

 

だからと言って上にあげた人たちが悪いといっているわけではない。

 

悪いのはシステムであり、仕組みや体制だ。

 

ミスを起こさせてしまったその裏側が悪い。

 

人が悪いわけではない。

 

だれしも、ミスをしたいと思っている人はいない。

 

ミスをしたくないと思いながら、ミスをしてしまう。

 

だから、これはヒューマンエラーではなく、システムエラーなのだ。

 

世の中のミスはすべてシステムエラーだ。

 

そう考えると、他人にイライラすることも、過度に期待することも、干渉することのない。

 

人のミスも許せるような器の大きな人になりたい。

 

人のミスを出しにして、悪口でつながるコミュニティなどなくなればいい。

 

世界がもっと優しくなりますように。

 

 

 

 

 

人は好意点でつながり、相違点で離れていく。

出会いと別れにはいつも深い意味がある。 | シンプリィライフ

f:id:reilab:20211014120636p:plain

出会いと別れは同じ点

好意点・・・他人に対して好意的な印象を受ける相手の特徴や雰囲気など

 

今回は「好意点」という意味付けを上のようにして話を進めていきます。

 

 

今回は

「人は好意点でつながり、相違点で離れていく」というテーマで話していく。

 

 

人とのつながりはどのようにできていくか。

 

怪しげな勧誘や、宗教団体や、暴力的なグループなど、

 

僕には嫌悪感を感じてしまうグループがいくつかある。

 

なぜ嫌悪感を感じるかというと、自分には理解ができないからだ。

 

自分の生活とかけ離れていて実態がわからない。

 

人が何かを拒絶する理由の一つには

 

「無知」

 

その何かに対して情報を持ち合わせてないから。

 

という場合がある。

 

そして、その嫌悪感を抱いている団体の人と仲良くなりたいとは

 

僕は思わない。

 

それらの団体にいい印象を持ち、仲良くできる人もいる。

 

ただ僕はあまりにも自分の生活と相まみえないので、いい印象を持つことはない。

 

決してその団体が悪いとか言いたいわけではないし、否定しているわけではない。

 

僕らは自分が好意を持った人とつながろうとする。

 

他人の素敵なところを見たり、感じたりすると

 

その人と近づいてみたい、友達になりたい、

 

恋人になってみたい

 

などのいいイメージを持つ。

 

僕らは人に対して好意を抱いた点(好意点)でつながろうとする。

 

しかし、ここで重要なのは

 

僕らは全くの赤の他人ということだ。

 

一見、他人の好意点を見つけると

 

その人がとても素敵な人に見える。

 

自分と似ている。とか、同じ価値観だ。と思ったりする。

 

それは幻想であり、まやかしである。

 

僕らは他人同士。

 

生まれ持ったものも違うし、生育環境も違うし、

 

ものの感じ方も違う。

 

全く同じ環境で育ったからと言って、

 

同じ人間ができるわけではない。

 

僕らが一見他人に対して見つけた好意点というのは

 

その人のほんの一部だということを忘れてはいけない。

 

似ている、価値観が合うといっても1割か2割程度だろう。

 

残りの8割、9割は僕らは合わない。

 

つまり、ごくわずかな好意点と、残り大部分の相違点を持ち合わせている。

 

だけど、僕らは初めに好意点を見つけてしまうと、

 

そこだけが大きくイメージとして残る。

 

大部分の相違点が見えなくなる。

 

そして、その相違点すら、

 

自分でいいように解釈してしまうのだ。

 

 

しかし、時間がすぎて、そのまやかしが解けていくころに

 

相違点が顔を出す。

 

あの時、みることができなかった相違点がここから暴れだす。

 

「価値観が合わない。」

「思ってた人と違う」

「こんな人とは思わなかった」

 

こんなことを言い出す。

 

しかし、そもそもが違うのだ。

 

他人が変わったわけではない。

 

自分の見方が変わったのだ。

 

もとから

価値観なんてほとんど会うことはないし、相手の態度が変わったわけでも、性格が変わったわけでもない。

 

ただ、自分が

 

価値観があってほしい。

こんな人であってほしい。

こんな性格であってほしい。

 

とまやかしにかかるうちに

 

私とおなじ価値観だ。

こんな人だ。

こんな性格だ。

 

と勝手に幻想を作り出してしまう。

 

相違点ばかりなのに、そこに蓋をして、見えなくなってしまう。

 

だから、僕らは本来あるはずの相違点に盲目になり、好意点だけをたよりにつながろうとする。

 

 

一度こんな人だとは思わなかったと相違点に目が向けられれば

 

もうその点が好意点に変わることはない。

 

それは恋愛でも同じだ。

 

僕らは初めが息が合うと

 

好意点でつながるが

 

次第に相違点がみえてきて、

 

離れていく。

 

 

自分の相違点を隠すことが必要なのではない。

 

自分の相違点を相手に認めてもらわなければならない。

 

そして相手の相違点を受け入れることのできる器の大きな人でなければならない。

 

僕らは自分の気持ちと対峙して考えることのできる生き物だ。

 

相手のことを理解することを怠ってはいけないのではないだろうか。

ADHDの教員のいる学校。~自分の物差しで他人を測るな~

図表でわかる!】ADHD(注意欠如多動性障害)の特徴 | ADHDって何 ...

同じ職場にADHD注意欠陥多動性障害)の先生がいた。

 

その先生は自分がADHDだということは知らないが

 

その分野に知見のある有識者

 

「その先生はADHDの傾向がある。」ということを漏らした。

 

たしかにその先生は、

 

言われたことができない。

 

人から言われたことの本質や意図がよくわからない。

 

自分のクラスの生徒をまとめることができない。

 

してはいけないことの理由がわからない。

 

テストの答案をなくす。

 

注意されたことを忘れて、正すことができない。

 

こんな場面がよくある。

 

その人がやってみて失敗ばかりして、正すことができず、繰り返し繰り返し同じ失敗をするのを見て、

 

この先生はADHDだから、この先生ができる仕事を与えるべきだと思った。

 

その先生ではなくて、体制にエラーがあると思った。

 

誰しも向き不向きがある。

 

このADHDの先生は失敗ばかりするその仕事が向いてないだけ。

 

だから、ほかの仕事に回す必要がある。

 

なのに、本人は一生懸命にやっていても失敗をするその先生の背中を無理やり押して

 

不向きな仕事をさせているのが職場の現状だ。

 

その先生がADHDであるということを知っているほかの先生が

 

こんなことを言っていた。

 

「むかつく。ADHDだからといって、そのひとだけ大目に見るのは違うんじゃない?

みんなに迷惑かけて、仕事もミスばかりしてるのに、ADHDだからといって許されるわけじゃない。仕事をしている以上、みんなと同じだし、迷惑かけないように努力するべきだと」

 

僕はそれを聞いて、「残酷だな」と感じた。

 

その先生は手を抜いているわけじゃない。

 

ADHDに甘えているわけじゃない。

 

本人は自分がADHDであることを知らない。

 

なぜ残酷と思ったかというと

 

本人は一生懸命にしている。

 

だけどADHDであり、抱え込めるキャパシティが違うのだ。

 

だから、どう頑張っても、これ以上は無理なのだ。

 

それなのに、その人が人と同じようにできないことにいらだち、

 

怒りを向けるのは大人げない。

 

人それぞれ能力のキャパシティは違うし、向き不向きがある。

 

どう頑張っても、もがいても、時間をかけても、たどりつけない領域があり、限界がある。

 

そのADHDの先生はそこが限界なのだ。

 

だから僕らがすることは

 

その先生がほかの人と同じようにできるのを求めるのではなく、

 

その先生のキャパシティでできる仕事を与えるべきだと。

 

向いている仕事を与えていくほうがいいと思った。

 

たとえば、足の不自由な人に向かって

 

走れ!

 

なぜみんなと同じように走れない?

 

とは言わないだろう。

 

足の不自由な人は

 

自分のできる最大限のことをしている。

 

足の不自由な人のキャパシティを超えるような、限界を超えるような要求はしないだろう。

 

不自由ながらもできる仕事や場所を与えるだろう。

 

それと同じでADHDも同じである。

 

指示をしようが、注意をしようがその人の限界を超えているのだ。

 

キャパシティを超えているのだ。

 

だから、その人ができる環境や場所を与えなくてはいけない。

 

それができていない労働環境のシステムが悪い。

 

ADHDの先生が悪いわけではない。

 

僕はそう思う。

 

 

 

僕はADHDの先生にいらだちを感じた先生に言った。

 

「人によって限界は違うから、人がどうこう言うことではない。人の限界をまだやれるといって、甘えているといって、他人が決めることではない」

「多様性を持てていないよ」

 

と。

 

 

僕らの限界やキャパシティは自分にしかわからない。

 

他人から見たら甘えているように見えるかもしれない、

 

他の人よりできないから手を抜いているように見えるのかもしれない。

 

何回も言うが僕らには得意不得意がある。

 

だから、その限界やキャパシティは他人の僕らが決めることではない。

 

そして、自分の普通を押し付けてはならない。

 

自分にとって相手の努力は50%くらいに見えるかもしれない。

 

だけど、本人にとっては100%の努力かもしれない。

 

自分の物差しで他人をはかってはいけない。

 

本人は頑張っている。

 

みんな頑張ってる。

 

それをみんなで認め合える世界になればいいと思う。

 

優しい世界になればいいと思う。

 

けっして自分の物差しを出してはいけない。

 

ましてやそれで他人をはかってはいけない。

 

人それぞれ目盛りが違う物差しを持っているのだ。

 

その物差しの違いをしり、

 

多様性を受け入れくことが大切だろう。

 

人に対して、なんでできないの?とか、

 

いらだちを覚えるのは優しくない。

 

できない環境を与えられたという目線に立って

 

その苦しんでいる人に寄り添ってほしい。

 

僕は優しい世界で歩いていきたい。

 

自分の生徒に

 

自分のこどもに

 

そんな世界を歩ませたい。

 

人のちがいを受け入れる多様性のある人に。

 

そしてこの現代には多くの病名や障害名がある。

 

僕ら一人一人何かしらの障害を持っているだろう。

 

それなのに目立った障害が出た人だけをたたいていく。

 

自分も障害(人とは違うところ)があるとは知らずに。

 

その障害の一つ一つも個性だとして

 

受け入れていく世界が来ますように。

 

ただの、得意不得意で片づけれる世界が来ますように。

 

 

 

 

 

ボドゲを遊びつくした俺が決める最高に面白くて盛り上がる「最強ボドゲ」を紹介!

 

めっちゃくっちゃ面白いボードゲームを紹介する。

 

 

なんとそれは

 

「犯人は踊る」

 

だ。

 

 

今まで100個以上のボードゲームを遊んできたが

 

このボードゲームを超えるゲームに出会ったことがない。

 

 

 

もちろん主観であり、個人の感想でしかないのだが

 

ここまで完成度が高く、なおかつ爆笑できるボードゲームは数少ない。

 

 

 

もう発売して時間もかなり立っているので

 

ここでルール説明をするなどといったことは省こう。

 

 

このゲームのいいポイントをまとめていこう。

 

 

 

1、「嘘がばれていい正体隠匿ゲーム」

 

このゲームは犯人といわれるカードを持っていることを知られてはいけない。

 

トランプでいうジョーカーみたいなものだ。

 

 

誰が犯人カードを持っているか、推察するのだが

 

結局ババ抜き方式で入れ替わっていくので、

 

わからなくなってしまう。

 

ましてや自分のところに来たりもする。

 

 

結局、半信半疑でゲームが進んでいくので、100%の確証はだれも持てない。

 

犯人を持っていることが知られたとしても、

 

 

その情報が本当なのかどうかすらわからないし、

 

 

その情報を言っている人が味方なのかどうかのわからない。

 

 

人狼のようにウソがばれてしまうと、終わりとか、責任を被るとか、そんなことはない。

 

なぜなら、その嘘を嘘だと100%言い切れる人はいないからである。

 

 

だからこのゲームは面白い。

 

ウソがばれてもいい「正体隠匿ゲーム」なんて、なかなかない。

 

むしろ嘘をついてなんぼ!である。

 

 

 

 

2、「脱落者のでないパーティーゲーム

 

「正体隠匿ゲーム」では珍しく、脱落者がプレイ中に出ない。

 

ましてやゲームマスターも必要ない。

 

そこにいるみんなで楽しめるのだ。

 

そして、運の要素もあるため、

 

いつも同じ人が負けるなんてこともない。

 

初心者もその場で覚えて、やったことのある人と同じレベルで楽しむことができる。

 

カードに効果も書いているので、プレイしながらも覚えやすく、

 

また、初心者だからと言って責められる要素もない。

 

 

みんなと同じように同じ目線で楽しむことができる。

 

 

 

3、「いつの間にやらチーム戦」

 

このゲームには「たくらみ」というカードが存在する。

 

このカードを切ると

 

その瞬間から「犯人サイド」へとチェンジする。

 

 

つまり裏切り者ということだ。

 

 

みんな当然、「お前!敵サイドかよ!!」となるが

 

 

その場にいる犯人だけが

 

「にやり」と心の中でほくそ笑む。

 

 

「お前が仲間だったのか」と。

 

 

 

 

犯人と裏切り者がつながった瞬間

 

このゲームを一緒に戦おうと

 

机の下で握手を交わす。

 

そんな気分だ。

 

時には自作自演を、時には周りをだましながらゲームを支配していく。

 

 

ただ、やはり運が大きく左右してくるので

 

このゲームにうまい下手もない。

 

 

 

 

4、「時間が短く、飽きずに何回転もできる」

 

このゲームは1試合、10分かかるかどうかくらいだ。

 

人数が多くなれば、それなりに時間がかかるが

 

かなり短い部類だ。

 

それでいて、最終局面では最高の盛り上がりを見せる。

 

だから、もう一回!となる。

 

 

負けたほうは悔しいから

 

もちろんもう1回!となる。

 

 

 

僕はボドゲ会と称して

 

延々、「犯人は踊る」をしたことがある。

 

 

それくらい、リピート率が高いのだ。

 

 

また、価格も安いし、ドン・キホーテや書店など比較的見つけやすい、流通数の多いボドゲなので

 

入手もしやすい。

 

 

人数も3人からできるので非常に活躍の場が多い。

 

 

ぜひ、見つけたら手に取ってみよう。

 

 

似てるボドゲとして、

 

・ラブレター

赤ずきんは眠らない

・スカル

 

などをオススメしよう。

 

 

ぜひ、みんなも友達と楽しんでね!

 

負けるごとにお酒1杯なんて、学生時代じみたことをやっても盛り上がるよ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

f:id:reilab:20211012143301j:plain

犯人は踊る!そして心も踊る